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2008年06月15日
しあわせの村で遊ぶ
息子は、行きのバスからハイテンション。着くと池にいるカメやコイに視線は釘付け。
少し歩くと、長い滑り台を始め、遊具がたくさんある広場が。その移動中も、はしゃいで走り回っていました。(冒頭の写真はその走っているところ)
持っていったボールを投げたり、つかまえたり、ゲラゲラ笑いながら楽しそうでした。
あれだけ遊んだのに、昼過ぎ、家に帰ってからなかなかお昼寝しませんでした…。
○マルクス・エンゲルス全集第1巻読了。引き続いてマルクスやエンゲルスらの初期論集です。ヘーゲル哲学批判から共産主義の立場へと興味深い叙述が数々…。
「ドイツの解放の積極的な可能性はどこにあるのか?
解答。それはラディカルな鎖につながれた一つの階級の形成のうちにある。…ひとことでいえば、人間の完全な喪失であり、したがってただ人間の完全な回復によってだけ自分自身をかちとることのできる領域、こういった一つの領域の形成のうちにあるのである。社会のこうした解消をある特殊な身分として体現したもの、それがプロレタリアートである。
プロレタリアートは突然やってきた産業の運動をとおして、ようやくドイツにとって生成しはじめている。…
哲学がプロレタリアートのうちにその物質的武器を見いだすように、プロレタリアートは哲学のうちにその精神的武器を見いだす。…
ドイツ人の解放は人間の解放である。この解放の頭脳は哲学であり、それの心臓はプロレタリアートである」(マルクス「ヘーゲル法哲学批判」)。ここでは、単にプロレタリアート、労働者階級が「疎外」された存在であるにとどまらず、自らを解放し、来るべき社会をつくりだす主体として力強く位置づけられていることが重要だと思いました。
また、エンゲルスのヘーゲルへの評価として、「彼(ヘーゲル)が客観性を非常に尊重し、現実すなわち現存するものを、個々人の主観的理性よりもはるか上においていたこと、そしてまさにこの立場から客観的現実を理性的にみとめるよう要求した」(「アレクサンダー・ユング『ドイツ現代文学講義』」)としていることにも注目しました。
投稿者 teruhoriuchi : 2008年06月15日 23:21
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